芝浦工業大学校歌「芝浦工業大学メンネルコール(福永陽一郎編曲)」&<解説>校歌の歴史

https://www.youtube.com/watch?v=8gcBF6ZKrhY

芝浦工業大学校歌(1941年11月東京高等工学校新校歌)
※北原白秋・山田耕筰ペアによる最後の校歌です。

 作詞:北原白秋
 作曲:山田耕筰
 編曲:福永陽一郎
 演奏:芝浦工業大学音楽部メンネルコール
 1985年12月8日 上野学園石橋メモリアルホール(第25回定期演奏会より)

入学式や学位記授与式(卒業式)などの式典、定期演奏会等で歌われる校歌です。
ここでは福永陽一郎編曲(1961年8月)の男声合唱版での演奏です。
(他に、三石精一編曲(1956年9月)の校歌もあります)
※芝浦工業大学音楽部(1928年東京高等工商学校音楽部→1929年東京高等工学校音楽部)
 芝浦工業大学メンネルコール1953年創立(1949年芝浦工業大学設置)


< 芝浦工業大学校歌の歴史 >

芝浦工業大学の前身、東京高等工学校の校歌は須川政太郎が作曲した寮歌風の校歌であった。
 1937年4月に創設者有元史郎から学校運営を任された岸本綾夫(陸軍大将→東京高工理事長→東京市長→満州製鉄理事長)が新しい校歌を北原白秋・山田耕筰に依頼したが、第二次世界大戦勃発で後回しになってしまった。しかし、1941年4月国民学校令があり再び依頼した。

 北原白秋は体調不良のため1940年交声曲『海道東征』作詞以後は病床にあり、新たな作詞は引き受けないことにしていたが、先に依頼があったことで最後の校歌として作詞された。
 現地を見れないため、東京工高の航空写真と岸本綾夫の校訓をもとに1941年10月に作詞された。
 北原白秋は朝撮影された東京湾の水面の輝きと朝日の影がある芝浦校舎の航空写真を見て一気に作詞したとのこと。(歌詞1番は入学時、2番は在学時、3番は卒業時の校訓をもとに作詞されている)

 その作詞を受け、当時乗りに乗っていた山田耕筰(1941年11月「日本音楽文化協会」発足、副会長(実質Top)に就任)により1941年11月に作曲された。
 歌詞最後の「東京 東京 高等工学」は曲との語呂が合わないため「東京 東京 東京工高」と変更し(北原白秋も承諾)、家人清書による引き渡された譜面では「東ーきゃう 東ーきゃう 東ー京ー髙ーこう」と記している。
 しかし、翌月の1941年12月太平洋戦争勃発によりこの校歌はほとんど演奏されなかった。

 その後、1943年3月松縄信太・有元ヨシが大学設置を目指し財団法人東京高等工学校を設立した。しかし、大学設置時に東京工業大学と名前が被るおそれがあるとのことで名称を見直すよう要望された。
 このため1943年10月財団法人芝浦学園に名称を変更した。校歌はこれ以後、芝浦学園歌(1985年付属一高が廃校となるまで)として歌われた。

 校名変更の為「東京 東京 東京工高」は「芝浦 芝浦 われらが母校」、「東亜(とおあ)に栄(さか)ゆく」は「永遠(とは)に栄(さかえ)ゆく」に変更された。なお、「吾ら」「我ら」や当初は3番のみ「われらの母校」であったが、混乱を招いたためすべて「われらが母校」に統一された。

出典:「芝浦工業大学校歌の歴史」(元芝浦工業大学音楽部顧問椎名博俊/CiNii Research ID:1410001205931797379)より抜粋

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